今月の
特集

2021.3.31
東日本大震災から10年。新たな未来へ
2011年3月11日、東日本大震災が発生。これまでの生活が一変した。 “地元で苦しんでいる人たちのために、何か行動したい” 。自らも被災地にいながら、立ち上がった青年たちがいる。 あれから10年―。彼らは今、何を思うのか。
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- ■①— 地元を思う気持ちはいつまでも…【インタビュー① 】
震災発生当時、私は仙台市の職場にいました。それまで経験したことのない激しい揺れを感じながら真っ先に思い浮かんだのは、…続きを読む
- ■②— 何十年先も、 寄り添い続けたい【インタビュー② 】
震災の後、全国から多くのボランティ アがかけつけ、復興支援活動をしている 様子をテレビや新聞で目にしました。…続きを読む - ■③— ともに明るい 未来を築いていく【レポート 東日本大震災ご供養】
未曾有の大震災から10年経った今、あらためて亡くなった方々や、今もなお苦しんでいる被災された人たちに思いをはせ、未来に向けて歩んでいこう。…続きを読む
- ■①— 地元を思う気持ちはいつまでも…【インタビュー① 】
地元を思う気持ちはいつまでも【インタビュー① 】
ある世論調査によると、「東日本大震災の風化が進んでいると思うか」という問いに対し、「そう思う」「ややそう思う」と答えた人は約7割だった。10年が経った今こそ、震災の記憶を風化させてはいけないと強く感じている青年がいる。C・Aさんに、震災当時の話と、今の気持ちを聞いた。
震災発生当時、私は仙台市の職場にいました。それまで経験したことのない激しい揺れを感じながら真っ先に思い浮かんだのは、家のこと。山沿いに住んでいたので、土砂崩れが起きていないか、すごく心配でした。
停電のために立体駐車場から車が出せず、何時間もかけて歩いて帰宅。家族は無事でしたが、家の近所は電柱が傾いていて、道路も亀裂が走っている。家の中もめちゃくちゃで、電気や水、ガス、ライフラインは全て止まっていました。津波で大勢の人が亡くなったとラジオで聞きましたが、実際に沿岸がどうなっているのか、映像が見られないので想像できません。1週間後にようやく電気が復旧し、初めて想像をはるかに超えた、大きな規模の津波が大勢の命を奪ったことを知ったんです。
地元の人たちが、津波で何もかもを失い、苦しい生活を強いられている。何か力になりたいと思いました。でも、ボランティアに行きたくても、道路が復旧せず、ガソリンも手に入らない。支援物資を送ろうにも、自分たちの分さえ満足に手に入らない。私は元気なのに、何もできないなんて……。悔しくて、すごく落ち込みました。
元気づけるつもりが、かえって元気をもらった
震災から1カ月。ようやく道路が開通し、ガソリンが手に入るようになりました。そんなとき、霊友会の仲間に誘われて、被害が大きかった地域に住む支部長、会員に物資を届けに行ったんです。
その中で津波に襲われた地域にも行きました。いたるところにがれきの山があり、壊滅した魚の加工工場から、魚の腐った臭いが漂っていました。支部長の家や会員たちがいる避難所を探そうにも、目印となる建物が全くない状態。実際に被災地の現状を目の当たりにして、何としても復興のお手伝いをさせていただこうと、思いが強くなりました。
それから、支部や地元の仲間、友達を誘って、定期的にボランティアに行くようになりました。がれき撤去や、支援物資の配達などの作業をしていると、支援先の人たちはいつも見ず知らずの私たちをあたたかく迎えてくれるんです。「ありがとう」。その一言がどれだけうれしかったか。つらい状況のはずなのに決してあきらめず、生活を立て直そうとしている姿にもふれ、みなさんを元気づけるつもりが、かえって私のほうが元気をもらっていたんです。
この先もずっと被災地を思い続ける中で、 できることは必ず見つかる
半年ほど経った頃、なかなか進まない復興の現実に加え、自分自身も仕事や日々の生活で精いっぱいになり、思うように支援活動のできないもどかしさで悩むようになりました。
そんなある日、支部のつどいに参加したときのことです。今後の目標を紙に書き、そこにかける思いをみんなで発表し合いました。その中である中学生の女の子の掲げた目標に、私は目の覚めるような思いをしたんです。私や仲間が1年以内に達成したい目標を書いていたのに対し、彼女は、「看護師になりたい」と将来の夢を書いていました。
その後、毎年霊友会の活動で被災地のイベントの手伝いや、復興支援イベント「笑顔まつり」の運営などに携わるようになりました。その時々の経験が、
決して風化させず、 共に歩んでいく
今年の2月、東北で大きな地震がありました。家では食器棚の扉のガラスが割れましたが、幸い家族みんなにケガひとつなく、電気や水道も無事でした。震災の直後は、家具が倒れないように、食器棚の扉が開かないように防災対策を徹底していた我が家。ところが、家具を使うたびに防災用具をセットするのがだんだん面倒になり、対策がおろそかになっていました。
また、電気や水が使えるのは何てありがたいんだろうと感じていたのに、今は使えて当たり前。だんだん、感謝の心も忘れていることに気づかされました。地震や津波で
地震が起きるたびに、震災の恐怖がよみがえります。先日の地震のときも、友達や仲間が心配になって、「大丈夫?」と連絡をとっていきました。みんなからはすぐに「大丈夫だよ」「余震が怖いね」と返事が。ある会員からは、こんな返事が届いたんです。「こういうとき、いつも連絡をくれるね。ありがとう」。彼女には普段から、返事があってもなくても、「元気?」とか「コロナは大丈夫?」と連絡をとっていました。
震災から10年。一緒に支援活動をしてきた友達、仲間は結婚して子どもを授かったり、青年部を卒業したりと、生活環境や立場は変化してきました。でも、 地元を思う気持ちはみんな変わっていません。これからもみんなで力を合わせて被災者と共に歩み、できる限りのことをさせていただく。震災から学んだことを次世代に伝えていく。そして、同じ志を持つ仲間を増やしていく。それが同じ被災地の東北に住む私たちの役割だと思っています。
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