今月の
特集
2020.10.31
ここが私の生きる道!
情熱を注げる仕事も、夢中になれるほどのやりがいも、最初からあったわけじゃない。未知なる道を切り拓いた先に自分を生かす場所を見つけた青年たちを紹介したい。
①一歩踏み出して、人と接する楽しさを知った
人見知りのままじゃ、もったいない!たくさんの人にそう伝えたいなと、今、思います。
私はかつて人見知りでした。友達とうまく関われなくて悩んでいた中学2年のとき、支部長から、「人生が変わるから、支部の青年部執行部をやってみない?」と勧められたんです。本当に変わるの?って半信半疑だったけど、思いきって会合に参加。すると、先輩たちが私のつらい気持ちを聞いてくれて、「大変だったね」と優しい言葉をかけてくれました。すごく嬉しくて、心が温かくなりました。
それからつどいや弥勒山で、自分から積極的に人と接していくうちに、苦手なタイプの人にも少しずつ話しかけられるようになりました。じっくり話してみると、みんなそれぞれ個性的で、将来の夢に向かって頑張っている人もいました。同世代なのにすごいなって尊敬して、私も頑張ろうと刺激を受けたんです。
就職するとき営業の仕事を選んだのは、人と接するのが楽しいって心から思えるようになったから。たくさんの人とふれ合えるこの仕事が、私は大好きです。
※写真はイメージです。本文の登場人物とは関係ありません。
②努力すべきは自分。気づきが力に
私は今、毎日が充実しています。天職に就けたと思えるほど、仕事が楽しいからです。
20代半ばまでは定職に就かず、大好きな音楽に没頭していましたが、27歳のとき自分の才能に見切りをつけ、運送会社に契約社員として入社しました。
しかし、トラックの運転手は想像していたより遥かに過酷。過労で倒れそうになったことは一度や二度ではありません。何度も辞めようと思いました。そんな中、当時、両親の仲が悪く、私は家でも心が休まりませんでした。だから、両親が変わってくれるように修行しよう。そう思っていました。
きっかけをくれたのは、私が導いた会員との関わりでした。会員から悩みを相談されるたび、嫌われるのが嫌で、いつも当たり障りのないことしか言ってこなかった自分がだんだん見えてきたんです。そして、両親に対しての接し方はどうだったんだろうと振り返りました。
「このままではあかんぞ」「将来のことは考えているのか」と口うるさく言う父に、「そうやな」と聞くふりをして、内心ではうるさいなあと思っていた自分。両親のため、会員のためと口では言いながら、自分のことしか考えていなかった私と違い、父は私のために、あえてきついことも言ってくれていたんだ……。
それから、父の言葉に耳を傾け、何かあったら私からも相談したり、両親がケンカしたら間に入るようにしました。すると、少しずつ、家族関係が修復していったんです。
努力すべきは自分だったんだと気づいた私は、仕事も、何があってもやり抜くと決め、必死で働きました。3年かけて正社員になり、昨年、チーフに昇格できました。それは、仕事を始めてから抱いた、人を育てる側になりたいという目標のスタートラインに立つことができた瞬間でした。
今、職場にも会員ができ、その彼とも一緒に、もっともっと成長していきたいと頑張っています。
※写真はイメージです。本文の登場人物とは関係ありません。
③社員、家族、地域から愛される会社に―飯田健太さん(30歳)・飯田康介さん(29歳)
祖父母の代から霊友会の会員で、幼い頃から両親と一緒に教えを実践してきた飯田健太さん(30歳)と康介さん(29歳)。二人は、茨城県にある板金加工会社「飯田製作所」で働く兄弟だ。父親の正之さん(社長)、母親の英美子さん(専務)が社員と共に一から築き上げてきた会社をさらに発展させていきたいと、日々奮闘している。
健太 私たちが子どもの頃から、両親は毎日遅くまで働き、帰宅後も経営者の勉強会によく出掛けていました。そんな多忙な生活の中でも、朝食は必ず家族そろって食べ、休日はいろんな場所へ連れて行ってくれた。習い事もたくさんさせてくれました。
康介 会社を継いでほしいとは一度も言われなかったので、変に意識することもなく、それぞれ自由に学生時代を過ごしていました。
健太 私はサッカーやバスケなど部活に明け暮れ、大学では1年から文化祭の実行委員もしました。好奇心旺で、常に人の輪の中心にいるのが楽しかったですね。
康介 私は兄と違って目立つことは好きじゃなかったんですが、なぜか部活のキャプテンや文化祭の実行委員を任されることが多かったんです。そのおかげで人前に出ることにも慣れました。
健太 妙一会や青年部活動も、いろんな人と関わることができて面白かった。大学生になってからは二人とも御旗支部の青年部執行部を任され、より積極的に活動するようになっていました。
会社を継ぎたいという気持ちが芽生えた瞬間
しかし、どこかに気の緩みがあったのだろうか。健太さんは大学の単位を落として留年してしまった。順風満帆な大学生活が一転。現実を受け入れられず、自分を見失っていった。
健太 周りのみんなが進路を決め、卒業していく中、後輩と一緒に授業を受けている自分。LINEで繋がっていた友達もどんどん離れていく。「なんで俺だけ」って、ものすごく惨めで……。次第に授業をサボりがちになり、当時一人暮らしをしていたアパートに引きこもるようになりました。
心配してくれた霊友会の仲間からの連絡もすべて無視。誰にも相談せずに一人でいると、どんどんネガティブな考えに陥っていきました。俺はダメな人間だ、こんな俺を必要とする場所なんてない、もう生きる価値さえないんだと。自殺をしたら楽になるとハサミを握りしめたことも……。そんな自分が怖くなり、泣きながら青経巻をあげていました。
康介 兄は、家族にも「大丈夫だ」と、本音を言わず強がっていました。そんな様子を見かねた父が「年末のつどいに帰ってこい」と説得したんです。
久しぶりに再会した家族や霊友会の仲間。一緒にお経をあげた後、ぽつりぽつりと現状を話し始めると、これまでため込んでいた思いがあふれ出した。
健太 気づいたら自分の気持ちを洗いざらい話していました。みんなも真剣に耳を傾けてくれて、俺は独りじゃなかった。ちゃんと見てくれる人はいるんだって感じたんです。父は、「実家から通学したらどうだ」と言ってくれました。大学までの距離を考えると大変でしたが、どこかホッとする自分がいました。これ以上、両親を心配させたくない。ここで逃げるような人生にしたくない。もう一度やり直そうと決意したんです。
そして、両親や支えてくれた人たちに恩返しがしたいと思いました。自分にできることは何だろう。そう考えたとき、両親が築き上げてきたもの―飯田製作所を継ぎたいという気持ちが芽生えてきたんです。
※「細かいところまで品質にこだわった製品を作ることが、顧客のためであり、社員の自負にもつながると思います」
何か一つ乗り越えたときに、人は成長できる(康介)
あらためて大学に通い始め、無事に卒業した健太さん。まずは企業で経験を積もうと、飯田製作所ではなく一般の企業に就職。その新人研修で、ベトナム人研修生のチン・ゴック・チュックさんとの出会いがあった。チュックさんは両親に楽をさせたいと祖国で起業したものの、経営難から半年で撤退。日本で学び直し、再び祖国で起業しようと来日していた。
健太 チュックさんとは新人研修から1年後、新しい派遣先で再会。そこで仲良くなり、彼からこんな相談を受けました。
日本語が片言しか話せないから、仕事で誤解されることが多いこと。うまく状況を説明できず、ある社員からいつも一方的に責められていること。それでも職場の空気を悪くしないようにと、笑顔を繕(つくろ)っていること。引きこもっていた頃の自分と同じように独りで悩んでいる彼を、私は放っておくことができませんでした。
そこで、支部の青年部で催したバーベキ ューのつどいに誘ったんです。チュッ ク さんは支部の仲間ともすぐに打ち解けて、「日本に来て初めて心を開いて人と接することができた」と嬉しそうでした。その後、孤独を乗り越えた自分の体験を伝え、「君も仲間にならないか」と彼を導いたんです。彼はお経をあげたり、ベトナム人の友人を弥勒山に連れて行くことを通して、職場でも積極的に話す努力をするようになり、元気になってくれました。
自分が孤独を経験したからこそ、独りで悩みを抱える人のつらさを知ることができました。将来、自分が経営するなら、お互いを思い合える会社にしたい。そう強く感じたきっかけでした。
一方、大学を卒業して介護用品の訪問販売の仕事をしていた康介さんは、仕事でのミスやクレームの対応に追われ、霊友会活動との両立に苦悩していた。
康介 御旗支部の妙一会責任者をしていた私は、毎年夏に開催する、妙一会を対象にした支部の弥勒山行事に向けて準備をしていました。しかし、仕事も大変な中で責任者としての役目も果たさなければと思えば思うほど、焦りと不安ばかり募っていったんです。ある準備会合の日、最寄り駅に降りた途端にどうしても足が動かなくなって、会合に行けなくなってしまいました。
そんなとき、支えてくれたのが支部の仲間でした。「自分の弱さを認めよう。そこから、どうしたらいいか一緒に考えよう」と背中を押してくれたんです。その言葉に勇気をもらい、焦らず目の前のことに一つずつ取り組んでいこうと思えました。
弥勒山行事が無事成功に終わり、私は、仕事でもミスを恐れず、勇気を出して一歩踏み出してみようと思いました。介護用品を利用する方々に少しでも笑顔になってもらえるように、用具の説明だけじゃなく、いろんな話をするようにしたんです。ある高齢のおばあさんが亡くなられたとき、娘さんから、「今までたくさん話をしていただいて、ありがとうございました」と手紙をいただきました。
人は、いろんな人の支えがあって前に進めるんだ。何か一つ乗り越えたときに、成長できるんだなと思いました。そして、仕事を始めて3年半―。これからの人生を真剣に考えたとき、父のもとで学び、もっと自分を成長させたいという思いが生まれました。
※工場内の機械を説明してくれた康介さん。「機械にも感謝の気持ちをもち、かつ安全に仕事ができるよう、毎朝全員で機械に挨拶をしてから始めるんです」
先頭に立って、会社を引っ張っていける存在に(健太)
平成30年1月、別々の道を歩んできた二人は、図らずも同じタイミングで飯田製作所の一員となった。
※健太さんのデスクにて。データや資料を駆使しながら、会社を発展させていくためのアイデアを日々練っている
康介 正直、突然やってきた「社長の息子」 である私たちに戸惑う社員さんも多かったと思います。まずは現場を知ることからだと、先輩たちに基礎から技術を教わっていきました。また、年下の社員さんとは一緒に食事に行ったり、社内外で積極的にコミュニケーションをとるように心がけました。そうすることでだんだん打ち解けていったんです。
健太 元々、社員同士のコミュニケーションも盛んで、家族的な雰囲気もある会社でした。それは紛れもなく、社長と専務が作り上げてきたものです。次は私たちが、先頭に立って会社を引っ張っていける存在になろう。その一心で頑張ってきました。
現場での知識・経験を蓄えながら、少しずつ、会社の営業や経営に関わる仕事にも取り組んでいった。業績は順調に伸び、昨年は過去最高益を記録。健太さんと康介さんも、確かな手応えを感じていた。そんな中で直面したコロナ禍―。
健太 私は、コロナ禍になって、「よし!やってやる!」と思いました。私たち兄弟は、一から会社を立ち上げ、リーマン・ショックなど何度も経営難を乗り越えてきた社長のような苦労を知りません。今、その苦労を経験できることは、将来、会社を継いで自分たちの力でやっていくときに、大きな財産になると思ったんです。
康介 今だからできることをやろう、と。雇用調整助成金を使って社員さんを一時的に休業させる方法もありましたが、それだと仕事の勘が鈍り、モチベーションの維持も難しい。そこで、社内研修を増やしたり、新しい取り組みに着手する時間に充てたんです。
健太 その一つが、会社の経営戦略を社員全員に見えるよう、可視化したことです。今の経営実態を包み隠さず開示し、 いかにコストを抑え、作業を効率化し、いい製品を作るか、資料を作って共有したんです。すると、各々の担当業務外への意識がすごく高まり、活発な意見交換が生まれました。また、社内全体が、仕事で使う軍手一つとってもより大切に扱うような雰囲気に変わりました。
康介 会社のホームページやパンフレットも刷新しました。板金加工の「汚い」「大変そう」というイメージを変えたくて、若い社員さんから意見をもらったり、実際に働いている実感をインタビューして載せたりしたんです。
また、自社のオリジナル製品にもチャレンジしました。これはコストダウンにつながり、受注した1つの部品を大量生産する仕事より、企画から考え、形にしていくことでみんなのやる気にもつながりました。若い社員さんたちもいろんなアイデアを出してくれたんです。
健太 仕事以外の研修も取り入れました。社員一人ひとり、自分のことをみんなの前で10分ほど話すんです。内容はなんでもアリで、ペットの話や、家族との近況を話す人もいます。みんな不思議といろんな話をしてくれるんですよね。この人、こういう性格だったんだな、そんなことを考えていたんだっていう発見がある。相手への理解が深まり、仕事がより円滑に進むようになりました。心を開いて相手と関わっていくことがいかに大切か。青年部活動で学んだことが生かされています。
現在、健太さんは社長室室長、康介さんは営業部長として飯田製作所の屋台骨を支えている。コロナ禍の経験を生かし、どんな会社に成長させていきたいか、先を見据えている。
康介 もちろん、売り上げはまだまだ厳しいです。でも、下を向いてはいられない。コロナ禍に直面したからこそ得られた経験を、今後に生かしていくことが大切だと思っています。
健太 人工呼吸器のカバー製作という、 コロナ禍になって新たに入ってきた仕事もあります。それはちょうど、私が法名をおつけする修行をしている最中だったんです。どんな困難な状況にあっても、今、自分にできることをやろうと前向きに取り組めば、物事は良い方向に転じていくんだと実感しました。
会員や友達ともオンラインで連絡を取っています。先日は縁あって、70代の方を導きました。人を思って行動する。霊友会の教えで学んだその精神を、今後も仕事に生かしていきます。
康介 昨年、「青年の弥勒山セミナー」に初めて参加してくれた年下のNくんも、コロナ禍でなかなか連絡がとれませんでしたが、先日、久しぶりにつながりました。彼の亡くなった母親は、飯田製作所のパートさんだったんです。私は今、「人を大切にする経営」を勉強しているんですけど、働く社員さんやその家族からも「飯田製作所に入って良かった」と言ってもらえる会社づくりを目指していきます。
健太 また、社員みんなで周辺地域のごみ拾いをしたり、昨年は日頃お世話になっている近所の方々を招いて創立30周年の感謝祭をしたりと、近隣のみなさんとの交流も大切にしています。会社のすぐ近くに小学校があって、工場見学をやってもらえたらと思っているんですよ。子どもたちが、大人になったら飯田製作所に入りたいと思えるような、地域からも愛される会社にしていきたいです。
※父親の正之さん、母親の英美子さんと一緒に
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