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  • 霊友会『開教100年』その原点

霊友会の創立者・久保角太郎

01

人々が真に
救われる道を求めて
 ―霊友会開教

大正時代、日本は第一次世界大戦が生んだ好景気と工業化が進む中で、新しい大衆文化(大正ロマン)の恩恵(おんけい)を受けていた。一方では貧富の差が激しく、特に農漁村では、食べることすら困難な、どん底の生活を強(し)いられた人々が大勢いた。追い打ちをかけるように戦後恐慌(きょうこう)が日本を襲い、人々は生きる力さえ失くしていく。そんな日本の将来に危機意識を抱いた青年がいた。霊友会の創立者・久保角太郎である。

何かもっと なに違った道が ちが みちあるのでは......俺の一生は おれ いっしょう......俺の一生は おれ いっしょうこれでいいのだろうか政治が...... せいじ社会が悪いと しゃかい わる言ってもはじ いまらないそれでは自分に じぶん何ができるのか なに しかし......だから......何をすればよいのか なに......

㈱いんなあとりっぷ社発行「親子で読むマンガ伝記シリーズ
恩師久保角太郎先生(下巻)-在家の叫び『霊友会』の誕生-」より

久保角太郎は当時、建築技師として宮内省(現在の宮内庁)に勤める傍(かたわ)ら、どうすれば世の中が救われるか、その道を探求し続けられていた。政治や社会のルールを変えるだけで、果たして本当に人々が救われるのだろうか……。久保角太郎は〝世の中を変え、人々が真に救われる道〟を求めて、法華経の研究と先祖供養の実践に入られる。大正9年(1920)、久保角太郎28歳のときだった。

「親や先祖はどういう思いでいるのか。その思いに自らの手で応える。その行いが在家の菩薩行であり、先祖供養ではないか。一人ひとりが生命の源を感じ、自分たちの心構えや態度をあらためてこそ、初めて社会は変わっていく」

一部経(「無量義經」「妙法蓮華經」「佛說觀普賢菩薩行法經」を一冊にしたもの)が何冊もぼろぼろになるまで読誦(どくじゅ)し、命がけの修行を繰り返された久保角太郎は、法華経をもって子孫自らの手で先祖を供養する以外に世の中を救う道はないと確信。

自分につながる父方・母方、両家の先祖供養を行い、親・先祖から受け継いだ良いものは伸ばし、悪いものは改めて、自らの運命を切り拓(ひら)く。在家主義仏教・霊友会の教えを開かれた。

誰もが自らの手で両家の先祖供養ができる

明治時代に義務教育が普及したことで、誰もが文字を読めるようになった。しかし、お経は漢文の音読み(真読)のため、お坊さんしか読めない。それに、一部経をあげるには時間がかかり過ぎる。毎日働きながら生活をしている在家の人たちにとって、毎日お経をあげのるは困難なことだった。

「霊友会」の名称を刻み込んだ、『青経巻』の初版。

「霊友会」の名称を刻み込んだ、『青経巻』の初版。

そこで久保角太郎は、誰もが短い時間であげられ、なおかつ先祖にも人の心にも通じる経本の編纂(へんさん)に取り組まれた。さらなる法華経の研究と修行の末に、昭和3年(1928)7月18日、『青経巻』を発行。30 分程度であげられるように一部経の要所を抜粋し、振り仮名つきの読み下し文に編纂したお経だ。これによって誰もが自らの手で日々、先祖供養ができるようになった。

霊友会初代会長 小谷喜美
(1901-1971)
昭和 13 年(1938)関西講堂落成祝賀会にて

02

人々の気持ちを
受けとめる

大正14年(1925)、当時24歳の初代会長・小谷喜美は、久保角太郎の実兄・小谷安吉と結婚。ところが半年も経たないうちに、小谷安吉が大病(腰痛症)を患(わずら)ってしまう。高価な注射を打っても、一向に良くならず、途方に暮れる小谷喜美。そんな彼女を久保角太郎は何度も訪ね、法華経の修行をするように説かれた。

小谷安吉と結婚されるまで、法華経とは全く縁がなかった小谷喜美。「南無妙法蓮華経」さえ唱えたことがなかった。久保角太郎のお話も、素直に聞くことができなかったという。しかし―。

「(治療費で貯金を使い果たし)着物を質に入れて、何にもなくなってしまった。お金を借りるところもない。どうしようもないので、〝主人が生きるか死ぬかなんだからやってみよう〟と思ったのです」。

朝 あさ「おはようございます」 出かける時は で とき 「行ってまいります」 い 夜 休む時は よる やす とき 「これをもって休ませていただきます」と やす ご先祖さまに せんぞ ごあいさつをする のが良き習慣だ  よ しゅうかん ご先祖さまに せんぞ あいさつなら 子どもの頃 こ ころ からやって います では 自分の亭主 じぶん ていしゅ に対しては たい どうだ えっ!?

㈱いんなあとりっぷ社発行
「親子で読むマンガ伝記シリーズ 恩師小谷喜美先生2
-修行生活 根性を直せ-」より

こうして修行に取り組まれるようになった小谷喜美。35日間、水をかぶってお経をあげる中で、小谷安吉の病状が回復していった。その後も久保角太郎の指導の下、夫婦で「水行」「一部経の全巻修行」「二十一日間の断食修行」など、数々の厳しい修行を繰り返された。そして、半信半疑だった小谷喜美のお気持ちが揺るがぬものへと固まっていくことになる。

生きる力を取り戻す場 ― つどい

「誰にでも先祖はあるんだから、平等に導いてお世話しなさい」。そう久保角太郎に指導され、小谷喜美は貧富の区別なく導いていかれた。中には、地下道や橋の下で寝起きするなど、大変苦しい生活をしている人たちも大勢いた。

その中で久保角太郎は小谷喜美に対し、自分を改めていくことを厳しく指導された。この方法の一つが、「発露(ほつろ)」だ。発露とは、自分の弱さも、悩みも、口に出してすべてさらけ出すこと。今で悩みも、口に出してすべてさらけ出すこと。今で 言う「体験談」である。これを導いた人たちと、お互いに実践するようになっていったのだろう。そうした人たちが集まって昭和3年(1928)、小谷法座が生まれた。現在の「つどい」である。

「つどい」は、地位や身分、職業に関係なく集まり、共に語る場だ。参加者それぞれが悩みや苦しみを受けとめ合い、また、喜びも共有した。「つどい」に参加する人たちは、そこから生きる力を取り戻していく。そして、この頃から会員が増え、「霊友会発会式」へとつながっていく。

霊友会という名前で世の中に向けて
本格的な布教活動を始める

運命を切り拓く先祖供養の教えを多くの人たちに伝え、導いていかれた久保角太郎・小谷喜美。少しずつ、共に修行する同志が増えていった。そして、昭和5年(1930)7月13日―。「霊友会発会式」を迎えた。

このときの参加者は、子どもを含め104人。名実ともに在家主義仏教・霊友会が誕生した。この日から、霊友会はさらなる発展を遂(と)げていく。

霊友会発会式(東京市赤坂区・青山会館)前列中央・恩師久保角太郎先生、左隣・恩師小谷喜美先生

霊友会発会式(東京市赤坂区・青山会館)
前列中央・久保角太郎、左隣・小谷喜美

「たすき」がなくした〝壁〟

お経の中に、仏教行事には身なりを整えて参加すべきというような記述がある。だが、当時の日本はまだまだ貧富の差が激しく、正装としての羽織、袴(はかま)をもっている人は少なかった。そんな事情から生まれたのが、「たすき」だ。

「たすき」がなくした〝壁〟

久保角太郎直筆の小谷喜美のたすき
(裏面に「昭和六年壱月弐拾八日」とある)

お経の中に、仏教行事には身なりを整えて参加すべきというような記述がある。だが、当時の日本はまだまだ貧富の差が激しく、正装としての羽織、袴(はかま)をもっている人は少なかった。そんな事情から生まれたのが、「たすき」だ。昭和6年(1931)1月、久保角太郎は小谷喜美にたすきを作られる。以後、霊友会はたすきをかければ誰もが正装したことになるとした。

「両家の先祖供養」「青経巻」「たすき」など、どれひとつとっても、当時から霊友会には貧富や男女の差別が入り込む余地はなかった。「先祖から受け継いだもの、人として生きる姿はそれぞれだが、自分が解決すべき因縁は、貧富や男女の区別はない。お互い同じだ」という “霊友会の平等観”、久保角太郎の思いが伝わってくる。

「宗教の本願は社会事業にある」。

久保角太郎・小谷喜美は布教活動と社会貢献活動を一体のものとして実践された。

昭和6年(1931)頃に婦人修養会を組織し、活動を開始。台湾震災義援金の募金活動にはじまり、ニッポン号世界一周大飛行達成の後援、歳末救済事業、戦時中の宮城(きゅうじょう)外苑整備事業への勤労奉仕、陸海軍省への慰問袋の献納、教育会や貧困者への寄附など、次々と全国の会員が社会貢献活動を行った。久保角太郎・小谷喜美は、常にこれらの活動の先頭に立たれていた。どんなことでもいいから社会の役に立ちたいという、両恩師の並々ならぬ熱意を感じ取ることができるだろう。

「宗教の本願は社会事業にある」。

戦時中の昭和12年(1937)、久保角太郎・小谷喜美が先頭に立ち、
出征した兵士を慰問するための募金活動を行った

昭和19年(1944)11月18日、久保角太郎は日本の将来を憂(うれ)えながら、後を小谷喜美や幹部に託(たく)して52歳で亡くなられた。そして、昭和20年(1945)、終戦。大都市は一面焼け野原となり、多くの国民が茫然自失(ぼうぜんじしつ)の状態だった。

「戦争は負けたけど、霊界は負けていない。しっかり念願して教えを生かしていけば、日本は見違えるように良くなる」。

小谷喜美は久保角太郎のご遺志を受け継いで全国各地の会員を訪ね歩き、会員一人ひとりを励まされた。そして、平和国家の再建を呼びかけられたのである。

まず行われたのが、久保角太郎の三回忌記念事業として始められ、昭和23年、七面山山頂に完成した「恩師御宝塔」(世界平和祈念塔)の建立(こんりゅう)だった。そのわずか3カ月後には「国友婦人会」が発足。戦没者の住所不明遺家族調査、四谷から飯田橋間の外濠(そとぼり)公園に桜の苗木2千本の植樹、戦災孤児・貧困者救済のための各都道府県への寄附など、自ら先頭に立たれて活動された。

青少年の育成こそ、大きな役割

久保角太郎はご生前、新しい時代の日本を築くために、若い世代に教えを正しく伝え広めていかなければならないと考えられ、小谷喜美に青少年の育成を託された。

時は流れ、戦後復興に貢献した国友婦人会の活動が認められた小谷喜美。日本赤十字社からの要請で、同社の親善大使として欧米各国の福祉施設と社会事業を視察され、英国赤十字社・バーク顧問と会談する機会をもたれた。

「人は困ったときに、お互いに心から助け合う気持ちが大切だ。広く社会に同情の思いを向けなければならない」。そんなバーク顧問の話に心を打たれた小谷喜美は、次のように語られた。

「欧米では、子どもたちにも小さい頃から社会奉仕の精神を教え込んでいる。今の我が国との違いはここにある。日本人には社会への眼差しや思いやりが欠けている。しかし、法華経の精神に目覚め、菩提心(ぼだいしん)をもって社会全体に大きく目を開けば、必ずや社会奉仕の精神は生かされる」。

次代を担う青少年の育成こそ、霊友会が国家社会に果たすべき大きな役割である―。そう確信された小谷喜美は昭和29年(1954)、青年部を発足され、青年の手による様々な社会貢献活動を奨励(しょうれい)。そして昭和39年(1964)に、青年の修練道場「弥勒山」を建立された。以来、多くの青年が人と人との関わりを通じて自分の心を見つめ、改める修行をし、将来に向けて歩む力を得てきた。

03

新たな100年へ―

創立者・久保角太郎、初代会長・小谷喜美の思いを受け継ぎ、多くの人が霊友会の教えを広め、次の世代へと受け渡してきた。そして今年、霊友会は『開教100年』を迎えた。

新たな100年に向けて、霊友会は「Myおせっかい運動」を推進していく。この運動の大きな目的は、身近な人に親切にする、困った人を助けるといった、道徳的な行いだけではない。どこまでも人を強く思い、寄り添っていくこと。同じ思いをもった仲間を増やしていくことだ。

一人でも不幸な人があってはならない―。久保角太郎、小谷喜美が願った社会を実現するため、世界中が未曾有の危機に晒(さら)されている今こそ、会員一人ひとりが人に社会に尽くしていく。

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