07.戦後さらに 社会事業を活発に

戦後さらに 社会事業を活発に

昭和24年(1949)1月19日、国友婦人会発会式から(旧本部講堂)。常に国家・国民のことを案じ、社会事業に心を寄せられていたご母堂さまの祥月命日を期して行われた(写真中央が小谷恩師)

霊友会は昭和5年(1930)の発会式の後、久保角太郎恩師、小谷喜美恩師が先頭に立たれ、布教活動との両輪で、世のため人のために尽くす社会事業を次々に展開していきます。

しかし、昭和19年(1944)、太平洋戦争の戦況が悪化の一途をたどる中、日本および国民の将来を憂いながら、 11月18日、久保恩師はお亡くなりになりました。

そして、広島・長崎への原爆投下、全国主要都市での空襲……。戦地で斃(たお)れた日本軍兵士を含む300万人にのぼる国民の命が犠牲となり、昭和20年(1945)8月15日、日本は終戦を迎え、敗戦国となりました。

恒久の世界平和と人類永遠の幸福を願われた久保恩師のご遺志を継ぎ、混乱した社会に法華経をもって貢献することを決定(けつじょう)された小谷恩師。いち早く各地の会員を訪ねて平和国家の再建を呼びかけられました。戦争で家族や働き手を失って困窮生活を強いられ、誰もが自分のことだけで精いっぱいだったとき。疲弊した多くの人々を励まし、元気づけたのです。

目覚ましい勢いで布教活動と社会奉仕活動に邁進していく霊友会の推進力となったのが、自らも終戦後の困難な日々を生き抜く女性会員たちでした。

昭和24年(1949)1月19日、ご母堂さま(久保恩師の養母・久保志ん氏)の祥月命日。昭和6~7年頃に女性会員によって組織された婦人修養会が母体となり、社会事業を目的に国友婦人会が発足したのです。

小谷恩師は後年、次のように述べられています。

戦後何年か経ち、本当に社会事業に進出していかなければならないという念願によりまして、国友婦人会をつくりました。以前は婦人修養会として活動しておりましたが、戦争の後は、霊友会も新しい名前によって社会事業を活発にしていきたいという私の信念のもとに、国友婦人会という名前を考えまして、幹部のみなさんにご相談しました。国の友となり、そして霊友会はあの世では霊の友となり、この世では会員の友となって、ご先祖ご供養の信仰をしていくのであるから、大変結構でございましょうと、みなさん賛成されました。

社会事業を目的とするのは、久保恩師のお養母(かあ)さまがご在世当時に、世の中で社会事業という、いろいろな苦労をしておられる方々をお救いするような慈悲をもつ、菩提心をおこす人が出るようにと、長きにわたって誓願を立てられ、私もそういうお話をうかがい社会事業に貢献しようという気持ちになったからです。久保恩師からも「目に見えないところの妙法の力・功徳をいただいて大勢の人に尽くすということが、宗教の本願であるんだ」と聞かせていただき、このような順序で、久保恩師のお養母さまを国友婦人会の御守護尊神としてお迎えしておるのでございます。

さらに、同会の目的について、次のように話されています。

第一に、家庭の平和を築き、世界平和安定の念願をする。第二に、人類の幸福と社会の福祉のため、動植物の愛護救済にも努め、良き婦人としてお互いに協力し、人格的向上を図る。第三に、祖先崇拝を行い、精神修養に努め、異体同心となって新日本建設のため努力する。(要旨)

当時、国友婦人会の監事(団体の庶務をつかさどる役)を務められていた濱口八重第三代会長は、次のように話されています。

「終戦後、日本の民主化に伴いまして、婦人の地位は向上いたしました。しかしながら、社会との接点がまだまだ狭いように思われます。したがって、社会事情を知り、解決にあたる役割は、自らを磨き、教養向上に努め、婦人としての自覚のもとに少しの時間も活用して、大いに使命を全ういたしたく存じます」。