08.国民が生きることで精いっぱいだった時代に始められた国友婦人会の社会貢献

国民が生きることで精いっぱいだった時代に始められた国友婦人会の社会貢献

「戦没者の住所不明遺家族調査」で東京都から小谷恩師に贈られた感謝状

「戦後何年か経ち、さらに社会事業に進出していかなければならない」という恩師小谷喜美先生の発願で、昭和24年(1949)1月19日、ご母堂さま(久保恩師の養母・久保志ん氏)の祥月命日を期して発足した国友婦人会。発足後すぐに取り組んだのが、東京都から依頼された戦没者の住所不明遺家族調査でした。

戦災によって、東京だけでも20万人以上が亡くなり、引き取り手のない多くの遺骨が東京都に保管されたままになっていました。住所の手がかりとなる戸籍簿が焼失し、遺家族(戦没者の遺族)は全国に散らばって所在不明。調べるにもその範囲が全国に及ぶため、東京都の職員だけでは手が足りず、なかなか手がつけられずにいたのです。

当時は敗戦の痛手が大きく、衣食住のすべてが欠乏していました。ほとんどの国民は自分と家族のことで精いっぱいで、他人のことを考える余裕はなかったはずです。そんな悲惨な状況の中、小谷恩師は調査の一部を引き受け、国友婦人会を中心に全国の会員たちが献身的な努力で、不明の遺家族を探して訪ね歩きました。その結果、調査開始からわずか一カ月の間に、依頼された1805柱のうち1289柱の遺家族が判明するという驚くべき成果をあげました。

この奉仕活動は、遺族はもとより東京都にも大変感謝され、同年2月25日、当時の安井誠一郎東京都知事から小谷恩師が表彰を受け、同年8月には堺榮伍・東京都民政局世話課長から小谷恩師に感謝状が贈られました。

小谷恩師は後年、次のように回想されています。

終戦後の社会情勢の混乱について法華経をもって世の中に貢献したいと決心しまして、昭和24年、東京都民政局を訪ね、社会事業施設の実情調査をしました。そこで、いま一番お困りの仕事のお手伝いをさせていただこうと思いましたところ、戦没者の遺家族の住所および移転先不明の調査が困難であり、遺骨引き渡し事務が停滞しているとのお話を聞きました。

そこで住所不明の遺家族を探す奉仕を引き受けまして、全国の各支部会員を動員して、この仕事に奉仕させていただきました。おかげさまで、短い期間のうちに、目覚ましい効果があり、この奉仕は東京都にも大変喜んでいただきました。

こうして始まった国友婦人会の社会貢献。同年3月には、戦争で傷ついた人々の心を少しでも癒そうと、皇居日比谷濠(ぼり)に緋鯉(ひごい)・真鯉(まごい)1万尾を放流、四谷~飯田橋間の外濠(そとぼり)公園に桜の苗木2千本を植樹。さらに翌年からは皇居内の清掃活動に取り組むなど、次々と活動を広げていくのです。


※皇居日比谷濠へ鯉を放流(昭和24年3月)