05.「ニッポン号世界一周親善大飛行」(前編)
世界一周親善大飛行に出発するニッポン号を見送りに来られた久保恩師(右から2人目)と小谷恩師(左端)(昭和14年8月26日/東京・羽田飛行場)
日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)以降、霊友会は、戦地に赴く兵士のために街頭募金を行い、青経巻と数珠(じゅず)、お経を書写したお守りを収めた慰問袋を贈るなどの社会事業に取り組んでいました。
昭和14年(1939)7月、東京日日新聞社・大阪毎日新聞社(ともに現・毎日新聞社)は、純国産の飛行機による「5大陸、2大洋制覇の世界一周親善大飛行」を8月下旬に挙行する計画を発表しました。この明るいニュースは国民を熱狂させ、機名を一般公募したところ133万通もの応募があり、その中から「ニッポン号」と命名。また、「世界一周大飛行の歌」がレコード化され、大ヒットしました。
国民を元気づけ、国際親善を図り、海外諸国で母国のために働く日本人を慰労する。世界的な大記録を達成し、日本が誇る産業技術力を世界に示す。一新聞社の催しという枠を越えた一大事業として盛り上がったのです。
恩師久保角太郎先生は、この事業を全会員の念願によって成功させようと発心されました。当時、およそ50万人いた全国の会員に向けて、次のように呼びかけられました。
この国際親善飛行は、国家のため日本国の重大なる任務を帯びたもので、乗組員は身命を捧げて飛行されるのであるから、霊友会会員も、霊界の十分なご守護がいただけるように祈願してほしい。
8月1日、5千人を超える在京会員有志とともに明治神宮に参拝され、国威宣揚(国家の威光を示すこと)と武運長久(出征した兵士がいつまでも無事なこと)、ニッポン号世界一周大飛行達成を祈願されました。同6日には、関西会員有志とともに明治天皇の墓所である伏見桃山御陵に参拝され、同様の祈願をされました。さらに同15日には、恩師小谷喜美先生、幹部会員数人とともに身延山久遠寺へ赴き、祈願参拝をされました。
自ら祈願を込められたお題目と青経巻を操縦士に
そして、久保恩師が自ら祈願を込められたお題目と青経巻を東京日日新聞社に持参され、ニッポン号操縦士の吉田重雄氏に手渡されました。また、乗組員一同の先祖を本部におまつりして会員が供養しました。
吉田氏は、出発前に次のように語ったそうです。
「霊友会のみなさまから多大のご声援とご援助を賜り感謝に堪えません。この未曾有(みぞう)の大飛行は決して機械の実力ばかりで成し遂げられるものではありません。たとえ機体に十二分の確信がありましても、大自然のもとでは極めて小さな、人類の挑戦に過ぎないのです。幸いにも貴会のご守護のお心づくしに百億の力を得たごとくうれしく感じております。私は、この経巻とお題目を身に堅く着けて操縦桿(かん)を握りしめ、お題目を唱えつつ6万キロを飛び、ご期待に添えたいと念願しております」。
こうして8月26日の出発を迎え、無事に帰還する10月20日まで、会員による念願は続いたのです。(後編へつづく)