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2024.5.1
小谷恩師はなぜ、弥勒菩薩を祀(まつ)られたのか①
小谷恩師が青年部を創立したのは昭和29年(1954)。その大きなきっかけになったのが、前年に日本赤十字社の親善大使として、欧米各国の社会事業と福祉施設を視察されたことだと、このシリーズの第1回で紹介しました。幼い頃から社会奉仕の精神が育まれている欧米の若者の姿に感銘を受けた小谷恩師は帰国後、青年を全力で後押しされ、様々な活動を展開。昭和39年(1964)の「青年の修練道場―弥勒山」の建立へとつながっていきます。
昭和34 年(1959)7月、弥勒山建設用地で建立祈願をされる小谷恩師と幹部会員
なぜ小谷恩師は、ここまで青年部のために力を注がれたのか。その根底には、久保恩師との次のような約束がありました。
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久保恩師から、「大勢の子どもを育てる念願をすることが、これからの修行であるぞ」。このように言われまして、いかにして青年部を育てていくか、青年部の修行道場ということを考えました。
霊友会の教えは在家信仰でありますから、先祖供養は各々の家庭で行えばいいだろうと。大勢集まるところは、青天井(屋外)でも結構だと思っておりましたが、「修行の道場というものは、人の雑音の入らない、汚れのない道場において修行をするのが良い。これが昭和の修行であり、そこが昭和の戒壇(かいだん)なんだ」と、長年の念願によりまして、霊界から教えられたのです。
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「戒壇」とは、お釈迦さまの教えを日常に生かしていくことを誓う場のこと。ではなぜ、その場所が弥勒山なのでしょうか。小谷恩師は、そのカギとなるお話を、昭和35年(1960)『明法』7月号の弥勒山特集の中で、次のように話されています。
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久保恩師ご在世当時に、「乱れた世の中を救うには、行法経を身をもって修行するのが今、時なんだ」と教えられました。指導に沿い、だんだんと行法経の修行をしていきますと、行法経のある箇所を霊界から教えられまして、行法経の修行をするには、ご本体は弥勒菩薩であるんだと。これが順序だということで、弥勒菩薩を祀ることにしたんです。
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小谷恩師の言われる「行法経のある箇所」とは一体どこなのでしょうか? また「行法経の修行」とは? 次回以降、さらに小谷恩師の真意に迫ります。